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玉ねぎ栽培の歴史

玉ねぎの栽培の歴史を紹介します。

玉ねぎの始まり

玉ねぎの起源は古く、イランを中心とした西アジアといわれていますが、もっと広い範囲であるとする説もあります。といいますのは、インド、トルコ、エジプト等で、野生種に近い品種が古くから栽培されているものの、玉ねぎの野生種については、未だ発見されていないというところにあります。

紀元前27~25世紀にはエジプトで栽培されていた記録があり、当時のピラミッド建設の様子を記したものには、建設に従事する労働者に「にんにく」、「だいこん」と一緒に「玉ねぎ」が配給されていたという記録が残されています。

たまねぎ紹介-01

 

玉ねぎ日本へ

日本へは江戸時代に南蛮船によって長崎に伝えられますが、観賞用にとどまり、実際に栽培が始まるのは明治以降となります。

北海道開拓使が明治4年にアメリカから導入した各作物と一緒に玉ねぎ「イエロー・グローブ・ダンバース」を導入したことが始まりとなります。寒さに強い玉ねぎは北海道の気候に適応し、北海道の春蒔き玉ねぎ「札幌黄」が生まれました。

北海道の玉ねぎ栽培の基礎は中村磯吉氏等の先駆的な活動によって定着し、大正の初めには約500ha程度が栽培されるようになります。

その後、栽培技術の確立や農作業の機械化等がなされ、現在では北海道全体で約12,000haで作付がされるまでになりました。

独特な香り「玉ねぎ臭」などによって、人により好き嫌いはあるものの、料理の食材だけではなく調味料の原材料など、実に多くの場面で利用され、欠かすことの出来ない常用野菜となった『玉ねぎ』ですが、日本で栽培が始まった当初は馴染みの無い外来野菜ということで、なかなか定着しませんでした。

実は、そんな『玉ねぎ』が日本で定着した理由として、明治初期に関西で流行したコレラが関係しているらしいのです。

当時、コレラは感染性・致死率が非常に高く、『三日コロリ』などと呼ばれ、大変恐れられていました。そんな中、『玉ねぎがコレラに効く』という噂が広まり、爆発的に売れるようになります。

実際に、玉ねぎにそのような効果は無いのですが、ヨーロッパでコレラが流行したときも同様のことがありました。玉ねぎの強壮剤的な要素や独特の香りから、古代エジプトやヨーロッパにおいて魔除けのような要素を持っていた事が関係しているのかも知れません。実際、エジプトではミイラの作成時、玉ねぎを眼窩に入れていたそうです。と、そんなことで、それまで食わず嫌いをしていた玉ねぎも、食べてしまえば、家庭に馴染みのあったネギと似通った味わいであることから、各家庭で定着するにはさほど時間はかかりませんでした。また、その後の食文化の洋風化や肉食の普及により、今ではすっかり日本の野菜となりました。

JAきたみらいの玉ねぎ史

明治初期に始まった、玉ねぎ栽培ですが、JAきたみらい管内では大正6年に札幌興農園より種子を購入し、北見市において初めて試作されました。大正期にはえん麦俵や木箱に玉ねぎを詰めて出荷していました。

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昭和41年に初めて作られ集荷貯蔵の近代化に貢献した木製コンテナ

 

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昭和43年から製造が開始された最初のスチールコンテナ

 

 昭和4年に玉葱バエの発生が確認され、以後昭和30年代前半に玉葱バエ対策防除が確立されるまで被害に悩まされていました。
 昭和30年代後半から栽培技術の確立等により面積は徐々に増加し、昭和40年代に入ると作業の機械化がなされ一気に面積が増える事となります。昭和40年代後半には玉ねぎ選別施設も整備されました。
 昭和44年には、販売供給体制が確立し現在に至りますが、幾度か価格が暴落する年もあり、生産調整(廃棄処分)を余儀なくされた事もありました。
 現在、JAきたみらいは全国一の玉ねぎの生産地として、玉ねぎ生産組織とJAが共に連携を図り、安定供給を全面に掲げた中で、品質の高位平準化に向けた取り組みを実施し、消費者の皆様から『選ばれる・求められる』産地の構築、JAきたみらいブランドの確立に向け邁進しております。

JAきたみらいでは、生産量日本一の玉ねぎを活用し、「玉ねぎと鶏もも肉の黒カレー」や「玉ねぎうま塩」、「芳醇 玉葱醤油」、「黒酢が入った玉ねぎドレッシング」、「玉ねぎと牛すじのカレー」、「まろ旨!オニオンコンソメ」、その他オリジナル加工商品を多数販売しています。
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